運動会の応援係は、5、6年生だけでなくてもよいのでは。
運動会には応援団ありますよね。
小学校では、あくまで他の係と並列ですから「応援係」と呼ぶべきでしょう。
とはいえ、 係とは呼べず、「団」と呼んでもいいくらい応援係 はダントツに大変です。
その応援係、みなさんの小学校では何年生がしていますか。
大規模校では、5・6年生がすることが多いのではないでしょうか 。
その場合、5年生は当然初めて応援係に入ることになります。
時には6年生も全員入れ替わっていて、全員か「応援係が初めて」な んてときもあります。
そうなると、応援の様子がわかっている子がいなくて、1から応援 をつくる必要があります。
そこで「5年生の時に応援係だったら、できるだけ6年生の時に入 る」なんてルールをつくっちゃうと、今度は希望が減ったりして、いろいろと難しい。
「5年生でやってみたけど、6年生では他の係で頑張りたい」とい う子どもを、無理矢理入れることもできません。
応援リーダー(応援団長)になるような子供を育てるように、5年 生のときから見通しもって、取り組めていくとよいのかもしれませ んがなかなかそううまくはいかないことも多いと思います。
さらに、5・6年生は委員会活動も兼ねていて、休み間や放課後の 委員会活動とも重なります。(それはそれで、見通しをもって動く 大切さを学ばせるためには必要なことではありますが・・・)
さらにさらに、社会体育の指導者から「練習できなくなるから応援係に入るなと言われています」などと、本末転倒なことを言われ、「 応援団に入りたいけど入れない。」子供まで出て、さらには応援団 が決まらないという事態まで起こったりします。
このようなことから運動会期間中の応援係の子供たちと、その担当 になった教師は、休み時間も放課後もないような事態になり、とても大変なんです。
そこで
働き方改革が言われている今、応援係の取り組みも見直してみませ んか。
その時「精神と時の学校」の応援係の取り組みが、少し参考になる かもしれないので紹介します。
一つは応援係のみ、3・4年生で希望する子供の参加を許可してい ました。(ちょっとしたサークル感覚で。5・ 6年よりは自由度をもたせて。)
3・4年生は委員会もなく、5・6年生よりは時間に余裕がある子 が多いです。何より、応援係に憧れて「やってみたい!」 と思っている子も多いのです。5・ 6年生よりも声が出ている子もいて、応援全体が盛り上がることに もつながります。
そして、その3・4年生の中から、将来、応援団長になる子供が出 てくるのです。ずっと連続で応援係はきついでしょう。だから5年生 のときは1回休んでも構いません。そして、6年生で万を持して再登場。
他の係に比べてダントツ大変な応援係ですから、その分、人を厚く するのは当然でしょう。
もう一つ。
それだけの時間とエネルギーをかけて応援をつくりあげることを通して、なにをねらうのか。それを全員が共通理解することです。
決して、「盛り上がる応援をするため」だけではないはずであり、 学校の活動であるからには、必ずそこに、子供にどんな力を育むのか。ねらいがあるはずです。
そのねらいの一つとして、 上の学年の子供が下学年に「引き継いでいく力」 をおくことが大切なのではないしょうか。そのことで、毎年1からスタートする応援団ではなくなり、いつもいつも教師が関わっておくことも減らすことができる 。
3、4年生を入れる意味も増してくる。
そうやって、応援係の取り組み1つにおいても、縦のつながりを意識的につくる。そんなことも学校での働き方改革の大切な視点の一つ だと思います。
読んでいただき、ありがとうございました。
1年生の学校探検が学校巡りになっていないか
1年生で「学校探検」をすると思います。
みなさんの学校ではどのようにしているでしょうか。
「精神と時の学校」では
児童が入ってはいけないところにだけ予め貼り紙をし、
事前に1年生担任が「今日は探検なので、ご迷惑をおかけします 。」と職朝などでみんなにお知らせ。
そして、 1年生を、校舎に放っていました。
スタートカリキュラム、アプローチカリキュラムの編成で大切なこと - 「精神と時の学校」で学んだこと
子供たちは、それぞれ思い思いにいきたいところに行きます。
初めて踏み入れる場所。
初めて見る光景。
どきどきしながら、学校を「探検」します。
私たち大人が、普段は見逃していることにも気づいて、
目を輝かせて驚いています。
「これ何??」「あれは何??」「〇〇じゃないの?」
そんな会話で盛り上がりながら歩いていきます。
ただの廊下と階段の分 かれ道も、
1年生にとっては、まるで運命の分かれ道。
どっちに行こうかと、友達と真剣に話し合っています。
そんな姿を1年生が見せるのは、「学校探検」を「学校探検」にしているからです。
時々、お行儀よく並んで、隣のこと手をつないで、先生の後をついていく「学校探検」ならぬ、「学校巡り」をしている時があります。
時々立ち止まって、「ここはね、○○の部屋ですよ。」と、1年生 が聞いてもいないのに、丁寧に解説してあげる。
「廊下を歩くときは、このように、並んで静かにあるくんですよ。 」と言い聞かせながら静かに静かに歩く。
これでは、「学校探検」ではなく、生活指導を兼ねた「学校巡り」。
生活指導は生活指導で、別な時にやればいい。
静かに決められたコースを、お行儀よく歩く学校探検を終えたときに、満足しているのは誰なのか。
その後の小学校生活で、追究しようとする子供を育てようとしているのか。
自分で壁を乗り越えようとする子どもを育てようとしているのか。
そんな教師の構えが、この1年生最初の学校探検にも表れてるのではないでしょうか。
しかも、いずれは、子ども達は学校に慣れてしまいます。
「学校を探検する」ドキドキワクワクを味わわせるチャンスは、1年生の入学直後しかありません。
そうやって、ドキドキワクワクを味わうから、その後の生活や学校の決まりを守ろうとする子どもにも、なっていくのではないでしょうか。
ついつい、一年生には、最初に小学校の学習規律や生活の決まりを徹底しようとしてしまいがちです。それも大切でしょう。でもそればかりだと、逆にそこからはみ出す子も増えてしまうのではないでしょうか。
読んでいただき、ありがとうございました。
委員会活動を楽しもう
「精神と時の学校」の放送センター(放送委員会)の活動で、いいなあと思ったものがあるので紹介します。
以前、「センター」の紹介のところで簡単に書いたのですが、今回は詳しく紹介します。
(委員会+クラブ)÷2=センター - 「精神と時の学校」で学んだこと
担当を決めておいて、休み時間に、頑張っている人や目的をもって活動をしている人を見つけ、インタビューをするのです。
そして、その内容を、休み時間の最後に放送をします。
「竹馬をしていた◯年◯組の◯◯さんは、『来週ある竹馬の検定試験で1級がとれるよう、けんけんができるようになりたい。だから練習を頑張っている。』と話してくれました。みなさんも◯◯さんのように、目標に向かって頑張って下さいね。」といった内容です。
私の、今までの学校の放送委員会でも、休み時間の最後に、次の放送を促す放送をしていました。しかし、それは、決められた原稿を毎回読むだけのことがほとんどだったように思います。
毎回同じ内容が流れるので、聞く方も、あまり聞いていない。教師も(私も含めて)放送内容よりも、「聴きやすいように」とか、「絶対に笑わない」といった、決まった指導しかしていなかったように思います。 そこに、特別活動が目指す、「自主的・実践的態度」に繋がるような活動や指導が抜けていることが多かったように思うのです。
放送センターで行なっていた休み時間のインタビューというのは、毎回違う内容になるというのは当然。加えてインタビューする放送センターの子どもにも、受ける子どもにも、対話する力がついてきます。
さらに付随して、各学年が今どんなことを中心に頑張っているのかを全校が知ったり、きっかけ集会で子どもがきっかかっているのかという教師の評価になっていたりする良さもありました。
ついつい子供達も教師も、今までやってきたことを踏襲してやろうとすることからスタートしがちです。それも大切なことではあります。 しかし、一年間ずっとそれでは、「自主的・実践的態度」育っていかない。
給食時間には、大抵の学校でみんなを楽しませるようにクイズを出したり、音楽を流したりというと活動がありました。そしてクイズの回答を募集したりといった、創意工夫をしていることもありました。
しかしそれでも、「昨年までやってきたこと」を踏襲している域を出ていないことがあります。
ついつい、勤労・奉仕的になりがちな委員会です。全校のために勤労・奉仕する気持ちを味わわせるのももちろんとても大切ですが、高学年の子ども達に、学校を自分たちで創っているという気持ちを味わわせることができるのも委員会だと思います。
放送センターのインタビューを一つの例に、子供達の創意工夫が生かされ、「自主的・実践的な態度」が育っていくような委員会活動を、先生方も是非楽しみながらやっていっていただければと思い紹介させてもらいました。
読んでいただき、ありがとうございました。
指名も手立て
指名によって、授業を作っていくこと。「指名も手立て」であることを学びました。
公開研のときは、主に課題についての考えを出し合うところから始め、課題を解決する場面を授業することが多くありました。
そのため、前時は課題(問い2)が位置付いて、課題に対する考えを子ども達にノートなり、ワークシートなりに書かせて集めるまでをしておきます。
そして、座席表に子ども達の課題に対する考えを記入し、どの子がどんな考えを持っているのかを把握して、授業を組み立てていきます。
まず最初はAさんに当てよう。
そしたら、同じような考えをもつBさんや、Cさんも発言しやすくなるだろうから発言させよう。
次に違う視点をもったDさん。
2通りの考えが位置付いて、どちらかで考えをだしあわせたところで、新たな視点のEさんの考えに出会わせる。
するとみんな、自分の考えとEさんの考えを比較し、自分の考えを見直したり深めたりし始め、ねらいへと迫っていくのではないだろうか。
このように、指名順によって、教室状況を作っていくのです。
最初は浅い考えの子から出させて、だんだん深い考えに出会わせていく流れ。
また、大正解のような考えを出させ、反対の考えも出させながら、対立状況をつくりながら、理解を深めていくような流れも。
このように意図的な指名により、教室状況をコントロールしながら授業を組み立てることができます。
教師がコントロールといっても、子どもの発言をもとに授業が進んでいくので、子どもにとっては、自分達が主体で進んでいる気持ちになるはずです。
でも、「こんなことは座席表に子どもの考えを書いてるような、公開研や研究授業だからこそできるんだろう。」「普段の授業には役に立たない。」って思う方もいらっしゃるかもしれません。
自分も最初はそう思っていました。しかしそうではありませんでした。
そういう授業をしていると、普段の授業でも、指名を大切にするようになります。それまではなんとなく、挙手した子どもに指名していました。しかし、指名によって、授業がコントロールできることを意識しながら指名すると、挙手した子どもだけでなく、いろんな子に意識がいく。挙手してなくても、この子、言いたそうだな。とか、この子に言わせたいな。と思えてくる。そんな子に指名し発言を促すと、不思議とちゃんと発言してくれる。
中身もこちらが想定した通りに発言したり、授業が流れたり、ということが出来てきます。
誤解のないように言うと、「言わせたい」のは決して答えとなるようなことを言わせたいわけではありません。正解を言わせて「そうですね。みんなわかりましたか」なんて、授業では駄目ですからね。
その時々の教室状況(課題意識を持つ状況、見直す状況、ねらいに迫る状況)をつくるため、時には敢えて、ねらいに反対の立場の発言を期待したりするのです。
最近は、資質・能力を育むために、学び方の改革もすすみ、研究授業でも教師と子どもの発言だけですすんでいくような授業は少なくなりました。それでも指名することは必ずあります。
そんなとき誰にどんなタイミングで指名するかということは重要だと思います。
「指名も授業の手立てである」そんなことを日々の授業の中でも是非心がけてみませんか。
日々の授業の楽しみも増すと思いますよ。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
指導案を書く時、パソコンに向かう前に。
全体研を終えると、公開研に向かいます。
全体研で明らかになったことをもとに、授業をつくり始めるのです 。
研究日や冬休みの時間を使って指導案審議が始まります。指導案審議といっても、「精神と時の学校」で特別だったのは、い わゆる3枚の指導案(鑑、指導計画、本時案)だけではありません でした。
むしろその3枚の審議に入る前の資料、子どもの実態や、指導要領解説から、「つけたい力」についての資料の審議に多くの時間を割いていました。
「つけたい力は本当にこれでよいのか」「指導要領の解釈はよいの か」
それがOKとなると、次は教材を審議にかけます。教材が通れば、 流れ図。流れ図が通ればいよいよ指導案・・・。
といった具合に決まった段階を踏んで指導案を完成させていきます。
子どもの実態、つけたい力、指導要領の解釈、そして全体研で明らかになったことと照らして、審議にかけた教材が本当によいかどうかをしっかりみんなで吟味していくのです。
審議するメンバーは、年次を考慮して2つのグループに分かれて います。
グループで年次が上の人から質問されて答えられなかったり、必要 な資料が生じたりした場合は、次の審議までの「宿題」となります 。
また、「宿題」がたまりすぎたときは、審議から外れ、一人での作業に入ります。このことは「別室送り」と言われていました。
また、比較的年次が上の人から審議されていきます。まだ年次が低い者は、自分以外の審議を見ながら、学んでいくのです。
最初の方の審議が長引いて、せっかく、準備していた資料が審議されないまま終わってしまうこともありました。
しかし、審議されていないからといって、何も学びがないわけでは ありません。
他の人の審議を聞いていて、「こんな資料が必要だ」ということを 自ら考えて追加したり変更したりする必要がありました。
そのようなことをしながら、主に3年次以下くらいのグループ内のメンバーの全教科の審議をしていくのです。
このようなグループ審議には随分と長い時間を費やしましたが、し かし、このグループ審議によって、いろんな教科の特質について学 ぶことができました。
また反対に、子どもが問いをもって学習を進めていくには、どの教科にも通じるものがあることもわかりました。
そして、この審議の大切さは、さらに後になってわかりました。
指導案3枚は、このような審議を終えたあとだと、あっという間にかけてしまうのです。
授業をつくるには指導案3枚の裏にある、教材研究がいかに大切か ということを身をもって知りました。
ついつい、指導案をかくとなると、いきなり鑑の児童観から、、、 と書いてしまいます。
しかしPCに向かう前に、3枚を書き始める前に。どんな力をつけたいのか、そのために教材にはどんな価値があるのか。といったことにしっかりと向き合っておくことは、かえって指導案3枚をスーム ーズに書けるだけでなく、より深みのある授業につながると思います。
読んでいただき、ありがとうございました。
運動会。短距離走でつけたい力は
精神と時の学校では、小運動会が見直しの問いであることは以前書きました。
小運動会で「見直しの問い」 - 「精神と時の学校」で学んだこと
それに関わって。
短距離走の組み合わせは、小運動会と大運動会では変えますか?
自分の今まで経験では、「精神と時の学校」に行くまでは変えることが多かったと思います。
走るのが不得意な子への配慮から「くじ引き」が多い。
「精神と時の学校」では学校全体だったか自分の学年だけだったのかは忘れましたが、、、 小運動会と大運動会は、組み合わせは変えませんでした。
走順の基準は、身長順だったか、タイム順だったか、くじ引きだったか、それもはっきりと覚えません。
大切なのは、走順を決める基準ではなく、小運動会と大運動会の走順を変えないということです。
なぜ変えないのか。
それは、以前書いたように、「小運動会が見直しの問い」を持たせるためだからです。
子どもに見直しの問いをもたせるために、小運動会で、「自分は〇位だった」だけでなく、「頑張りを成長を伝えられる走りはできたか。」たとえ最下位であっても「練習の時よりも、前の人との差を縮められたか。」ということを振り返らせます。
そして大運動会に向かわせるのです。
「お家の人の前でどんな走りをすればよいか。」「少しでも前の人との差を縮めるために、大運動会までにできることはないか。」そんな問いをもたせて。
そんなときに、小運動会が終わったからといってまた走順を変えてしまっては、子どもの意識はどうなるでしょう。
これまで練習してきたこと、小運動会での自分の課題を見直す相手を失ってしまいます。
大運動会で自分のテーマを達成できたかどうかを判断する基準を失ってしまいます。
さらに小運動後、くじ引きなどで走る順番を変えるときの子どもの姿はどうでしょうか。
私が知っている限りでは「どうせ小運動会の後でくじを引きなおすから大運動会でいい組み合わせになればいい。」
と、小運動会後のくじ引きに全てをかけているような子供もいました。
小運動会では1位になれなかった子が、1位になれそうな組み合わせになったら「やったー。」と大喜び。
小運動会で最下位だった子が、もっと遅い子と同じ組み合わせになったらもっと「やったー。」と大喜び。
喜ばれた子は、傷つき、小さくなって座っています。
細かいことで言えば、走順を変えたら、大運動会までの短い時間で、また並び方を覚えるために並ぶ練習をさせたり、表を作り直したりしないといけない。
走るための短距離走なのに、走るよりも並ぶ時間の練習が長くなる。
変える事でものメリットもあるでしょう。特別に配慮が必要な子どももいるでしょう。
そうやって走順を変えることと、そのままいくこと、どちらが良いのか検討してみてはどうでしょうか。
大切なのは私たち教師が短距離走を通して何を教えたいのか。ということ。
努力することの大切さを教えたいのか。
それとも運が大切ってことを教えたいのか。
極端かもしれませんが、そういうことなんだと思います。
読んでいただいてありがとうございます。
問い2がかかってない
初めての公開研の前時のとき。 私は道徳で公開授業でした。
「精神と時の学校」では、特に公開研の道徳は2時間で行なっていました。
課題が位置づく、いわゆる「問い2」が位置づくまでを1時間目。その課題から解決までを、2時間目。という流れでした。
不易流行〜「問いの深化」と不易と流行〜 - 「精神と時の学校」で学んだこと
公開研の前時が確か、公開研の3、4日前だったと思います。前時を当時の道徳主任が授業を見に来ていました。
前時を終え、指導案に「問い2」として書いてあった文言を板書に位置付けて終わりました。
しかし、道徳主任の先生からは、「まだ、問い2がかかってないなー。」と言われ、公開授業まで、「もう一時間やった方がいい。」ということになり、手立てを準備して、1時間目の途中からをやり直しました。
子どもの経験を振り返らせたり、登場人物の状況をもう一度捉え直させたり。
そして、昨日と同じように、課題にせまる発問をしたとき、子どもたちの手が勢いよく一斉に挙がりました。
それを見て教科主任は、「よし。」と言い、前時をようやく終えることができました。
まだ自分が「精神と時の学校」に勤務し始めて2か月くらいの出来事だったのですが、、、。
そのとき、はっきりわかったことがあります。
1つ目は「問い2」いわゆる中心課題といわれるものは、板書に書いたときが、課題が位置づいたときではないということ。これは以前書きました。
課題を黒板に、貼るべきか書くべき - 「精神と時の学校」で学んだこと
2つ目は、本当に子供に問いがかかったときは、子どもの挙手の仕方から、目の色から違うということです。
3つ目は、自分のそれまでの授業では、そのように本当に問いをかけようとして、細部にまでこだわって、授業をしていなかったということです。
「なんとなく」の手立て。教師の意図が曖昧な学習活動。
そんな授業で生まれた子どもの「なぜ」は「問い」ではなく、「疑問」レベルだったと思います。
意図的に。
子どもが「なぜだろう。」「解決してみたい。」という強い「問い」を持つ状況を、意図的に作り出し、問いを生み出す。
それこそが「授業」のスタートなんだということ。
与えられた「やり直し」の授業によって、問いがかかった子どもの姿を明確にみることができたおかげで、学ぶことができました。
みなさんも、本当に「問い」をもった子どもの姿になっているか。という視点で中心課題を位置づけたときの子どもたちを見てみてはいかがでしょうか。
読んでいただき、ありがとうございました。