特別の教科道徳の「多面的・多角的に考える」とは
「道徳」は「特別の教科道徳」となり、目標に「物事を多面的・多角的に考え」という文言が加わりました。
「多面的」と「多角的」はどう違うのか時々話題になることがあります。
学習指導要領には、違いは書かれていません。そのためか「違いを区別する必要はない」という人もいます。しかし敢えて「特別の教科道徳」における「多面的」と「多角的」に対する私なりの解釈とその必要性を「手品師」の教材をもとに考えてみたので紹介します。
教材「手品師」は言わずと知れた有名な教材ですが、念のためあらすじを書いておきます。
0 「手品師」あらすじ
腕は良いが長年売れない手品師が、ある日一人ぼっちの男の子と出会い、手品で笑顔にする。「明日も来る」と約束をするが、その日の夜、思いがけず大劇場で手品をする千載一遇のチャンスが巡ってくる。男の子の約束とダブルブッキングしてしまうのだ。
手品師は、大劇場に立つ自分と男の子を思い浮かべる。しかしきっぱりと男の子の方に行くほうを選び、翌日、たった一人の観客・男の子の前で手品を披露する。
「手品師」は「正直・誠実」の教材です。
ここからの説明は「『手品師』が男の子を選んだ思いは、どんな思いなのか」を考える学習課題という前提です。
1「多面的に考える」とは
子どもたちからいろんな考えが出されることが予想されます。
「約束は守らなければと思ったんじゃないかな」
「男の子が悲しむのが嫌だったんじゃないかな」
「ずっと後悔して生きるのが嫌だったんじゃないかな」
「自分の心に正直に生きたいと思ったんじゃないかな」 など。
この時、
「約束を守ろう」という考えは、「規則尊重」という内容項目の側面から。
「悲しむのが嫌」だと「親切・思いやり」の側面から。
「後悔して生きたくない」だと「よりよく生きる喜び」の側面から。
「自分に正直にいきたい」だと「正直・誠実」の側面から。
このように様々な道徳的な価値の側面から考えることを「多面的に考える」と捉えてはどうでしょう。
2「多角的に考える」とは
授業の中で「自分に正直にいきたい」など、ねらいに近い考えを授業の話題の中心し、さらに深く掘り下げていくことがあります。
子どもたちは
「自分に正直に生きると前向きに生きられる。明るく生きられる」
「嘘をつくと、例えうまくいっても心は暗くなる」など、
「自分に正直に生きる」ことの「良さ」を様々な角度からとらえていきます。
また、自分の生き方と比べさせることで、
「正直に生きたいとは思っているけどなかなか難しいな」など自分の生き方とつなげて考えるでしょう。
このように、ねらいに近い考えに焦点化する。そのことで中心として扱うべき道徳的な価値を自分の生き方とつなげるなど、様々な角度から考えることを「多角的に考える」と捉えてはどうでしょう。
以上のように「多面的」「多角的」を解釈したなら、授業ではどんな発問が考えられるでしょうか。
3「多面的に考える」発問
「手品師はなぜ男の子の前で手品をすることを選んだのだろう」
「男の子の前で手品をする手品師はどんな思いだろう」
など、道徳的な行為を行った「主人公」や登場人物の思いを問う発問が、子どもが「多面的に考える発問」であるといえます。
子どもからいろいろな考えを出させる発問です。
「横の広がり」がある発問とでも言いましょうか。
4「多角的に考える」発問
「『自分に正直に生きる』ことにはどんな素晴らしさがあるの」
「『後悔なく生きる』って、なぜ大切なの」
「自分に正直に生きられてますか」
など、ねらいとする内容項目についてじっくり考えさせる発問が、子どもが「多角的に考える発問」であるといえます。
子どもに、新たな視点から価値を見直させる発問です。
「たての深まり」がある発問とでも言いましょうか。
5 まとめ
あくまで自分なりの解釈ではありますが、このように考えると「多面的」と「多角的」は区別をつけることができます。
しかし「多面的」に広く考えさせるだけでは、様々に考えは出るかもしれませんが、深まりのない授業になるでしょう。いきなり「多角的」に深く考えさせようとしても、子ども主体の授業、本当に道徳的価値の尊さを実感できる授業とはならないでしょう。
だから、道徳では「多面的」だけでもなく「多角的」だけでもなく、子供が「多面的・多角的」に考えるようにすることが大切なのだと思います。
必ずしも「多面的に考えさせてから多角的に」と順番があるわけでもありません。教材、子どもの実態で変わることもあるでしょう。また、「今は多面的に考えている状況だ」「ここから多角的に考えさせよう」などといつも線引きできるわけもないでしょう。しかし授業する上で、授業者が「横」の多面的と「縦」の多角的とがあること。そしてその両方をうまく組み合わせることが必要だと意識しておくことは、大切なんだろうと思います。
「たての発問は多角的ぃー。横の発問は多面的ぃー。織りなす 授業はー。いつか子どものぉー。道徳性を育成するかもしれないー。」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
卒業式練習の指導で、秀逸な言葉
みなさん、卒業式練習もいよいよ佳境のことと思います。
卒業式練習は長くて結構きつい。
それも実は在校生の方がきつい。
なぜなら、卒業式ですから卒業生の方が立ったり座ったり出番が多い。
在校生は、じっと座ってる時間が長い。
そこで、卒業式の不思議な学校文化として、在校生の評価は「いかに動かないか」というものがありますよね。
「今日の練習は頭が動いてなかったから良かった」なんてことが、卒業式の練習後、教師間の話題になる。
だから、練習中は「頭をふらふらさせない!」「動くな!」といった指導になることがあります。
そんな指導をする教師は、レベル1です。
教師でなくても誰にでも言えることです。
それに、動かないからといって思いを持って卒業式に臨んでいるとは限らない。
逆に、少々動くからといって卒業生に対して思いがないとも限らない。
だから、動くかどうかで評価するのは本当はおかしな話です。
そこでレベル2の教師は子供の心を指導します。
だから、「姿勢で卒業生に伝えなさい。」「感謝の気持ちを、姿勢に表しなさい。」などの言葉かけになります。
それを、卒業生、在校生、双方で指導します。
自分は、「精神と時の学校」で、レベル3の言葉に出会いました。
その言葉は練習の冒頭、在校生に対して言われたのですが、卒業生も聞いていました。
その、在校生の指導のために言われた言葉とは、、、、。
「今日の練習の中で、憧れの卒業生を見つけなさい。」
秀逸な言葉だと思いませんか?
在校生に「憧れの卒業生」を見つけさせる。
このことにより、在校生は、目的意識ができます。
無目的にただじっとしているよりも、目を使い、耳を使い、頭を使って卒業生を見るでしょう。
長い卒業生の証書授与の最中も一人ひとりの歩き方、受け取り方までよく見る。互いや、来年の自分と比べて返事を聞く。きっと、いつもより、時間が過ぎるのも早く感じるでしょう。
そんな大きな効果があります。
そして、この言葉の効果は、在校生に、対してだけ生きるのではありません。
卒業生にも、生きるのです。
もう、お解りですよね。
卒業生は、
「今日の在校生は憧れの卒業生を探すのか、、、」
「恥ずかしいまねはできない、、、」
「自分が誰かの憧れの卒業生になるように頑張ろう。」
という意識になります。
在校生にかけた言葉が、実は卒業生にとっても、大きな意味ある言葉になっているのです。
こんな言葉かけをできる教師こそが、子どもに力をつけられる、レベル3の教師なんだろうと思います。
最後の卒業式練習、または、卒業式当日でも、大きな力を発揮するする言葉だと思います。
是非、お試しを。
そして、ただ動かないように我慢するだけの時間があるとしたら、そんな時間から少しでも、子ども達を解放してあげて下さい。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
運動会の表現で目指すものは
運動会で各学年の「表現」があります。
運動会の練習のほとんどが「表現」に使われている学校は多いことと思います。
そこまでして時間をかける「表現」で、先生達が目指しているものはなんでしょうか。
運動会当日、可愛らしい姿、頑張る姿、一糸乱れぬ姿を見せて、観客からの大きな拍手をもらうこと。
多くの教師がそこを目指しているのではないでしょうか。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。
「精神と時の学校」では、表現の練習をするとき、10人のグループを作っていました。そして、10人が最後までできるようになったら、テストを受けさせるのです。10人全員が最後までの動きを覚えて、「表現」することができたら、合格。
メダルをプレゼントします。
だれか1人でも間違ったり、腰を落としていなかったり、手が伸びていないなど条件に合った動きが出来ていなかったりすると、音楽を止め、不合格とします。
時々の全体での体型移動の練習などのとき以外は、そのテストやグループ練習をひたすら繰り返していくのです。
すると、10人の中に壁ができてきます。
「あいつがいるから、合格できない。」
「もうメダルなんていらない。」
チームの中で喧嘩も起きます。
その「壁」を子ども達に乗り超えさせていくのです。
ですから教師は全員の前に立って、動きを教えることが主な役目ではありません。
子ども達が壁を乗り越えていけるようにすることが主な役目です。
時には、まとまっているチームをみんなの前で褒める。
時にはバラバラなチームをみんなの前で叱る。
時には9人は完璧なチームに、「もう合格でメダルあげてもいいけど、どうする?」と問いをかけ、「いらない、10人でもらいたい」という言葉を引き出す。9人で必死に1人に教え、1人の子が最後に合格したときは、9人が自分のことのように歓声をあげる。
そのような運動会の「表現」の取り組みを通して、
子ども同士教え合うこと、協力し合うこと、時には本音でぶつかること、など、集団の中で大切な価値を実感させていくのです。
それらを実感した子ども達が、運動会当日、これまでの道のりを「表現」した先に、結果として観客からの大きな拍手があるのです。
そんな「表現」であれば、運動会が終わっても、教えあったり、協力しあったり、本音で語り合ったりする子どもの姿が見られます。
授業にも、そのような学習活動の場を仕組むことで、子ども達だけで、質を高めていけます。
なぜなら運動会の「表現」を通して、子ども達はもう、教え合うことや協力し合うことや、本音で語り合りあうことの先に、自分達の成長があることを知っているからです。
運動会の取り組みを通して、運動会だけでは終わらない力をつけていく。
私たち教師が目指すべき子どもの姿とは、そこではないでしょうか。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
タイヤ運び必勝法 2
前回、タイヤ運び必勝法1として、「タイヤを落とさない様にするにはどうすればよいか」という課題を位置づけ、子どもたちが自分たちで考え、動くようにすることを書きました。
今回必勝法の2です。
それは「一つのことを追究させた。」ということです。
子どもたちは練習を重ね、ずいぶんとタイヤを落とさなくなり、運ぶのが上達してきました。
しかし、落とさないことばかりを意識していて、スピードがあがらない組もあります。
そんな姿を見ていた教育実習生が私に言ってきました。
「先生、少しスピードあげるように言ったらどうですか?」
私も正直、そうしようかと迷いました。
しかし、「落とさない様にするにはどうすればよいか」だけで通すことにしました。
そして迎えた運動会当日、 子どもたちを教室に集めました。
そしてこう言いました。
「今までみんなの力だけでよく頑張ってきたね。だから先生は、今までみんなのやり方に口出ししなかったんだよ。でも最後に一つだけ。絶対に勝てる方法をみんなに教えるよ。それは・・・。」
1年1組みんな真剣に私の言葉に耳を傾けていました。
「2組と3組の方を見ないことだよ。」
「失敗してもいいんだよ」とか、「最後まであきらめないことだよ 。」などを予想していたのか、驚いた表情の子もいました。
私はこう続けました。
「今まで、みんなはタイヤ落とさないためにって頑張ってきたんでしょ。相手は誰?2組や3組だった?違うよね。相手はいつも自分たちだったでしょ。
だから、最後まで自分たちと勝負するんだよ。
1回も落とさなくって、それでも2組や3組の方が速かったなら、 それは仕方ないよね。
『落とさないように」頑張ってもそれでも落とすことはあるから、 それも仕方ないよね。
でも、最後の最後で、2組や3組を気にしてしまって、練習のときと全然違うことやって。それでタイヤ落としたら、とっても悔しい でしょ。
だから、2組や3組は絶対に見ない。練習でしてきたように。タイヤを落とさないことだけ考えながらやるんだよ。
そうすれば絶対にみんなは勝てる。」
(記憶が曖昧なので客色あり。)
みんなは「はい!」と元気に返事をしました。
「運動会の団体競技に必死か!!」と突っ込みたくなる人もいるかもしれません。
もちろん私自身、大人気なくタイヤ運びに勝つことに真剣だったわけではありません。
(確かに「精神と時の学校」にはそれほど真剣になる雰囲気はありましたし、なにより子供も必死でしたが、、、)
ただ、子どもたちに「一つのことを追究するよさ」を味わわせることに真剣だったのです。
「落とさないためにどうするか」の一つだけを追究させることで、子どもは自分たちで考え、自分たちで動けるようになる。そして 旗を回るスピードや次の組との交代のスピードも自然にアップしてくる。
結果的には、二つのことやたくさんのこと追究させるよりも成果がある。
子どもって。子供の集団の意識って。そういうものなんだということがはっきりわかりました。
これは授業にも通じることだと思います。
「一つのことを追究させる」ことは、問題解決的な学習の基本といえるでしょう。
いくつものことについて考えさせるのは、言わば「一問一答式の学習 」。または教師が都合のいいように課題をすりかえてしまう、「子どもの思考にそっていない学習」でしょうか。
問題解決的な学習が大切だと特に言われだしたのは、子どもの意識、そして集団の意識として、子供たちの力を伸ばすために一つのことを追究させていくことが特に有効な学習なのだということが、今改めて見直されているから。そんなことをあのタイヤ運びの取り組みを通して思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
タイヤ運び必勝法1
以前書いたように、「精神と時の学校」の運動会の1年生の団体 競技は「タイヤ運び」と決まっていました。
ペアで2本のポールを両腕にもって立ちます。
そのポールの上に大きなタイヤを置きます。
(正確には重さを考慮してタイヤチューブです)
二人とも前を向いて、ポールの上のタイヤを落とさないように走ります。
自分の学級では、小運動会、第運動会あわせて36組のペアが走りましたが、
落としたのは小運動会の1回目のみでした。
大運動会は1度も落とすことなく、圧倒的勝利でした。
決して、勝つために厳しい練習をしたわけではありません。
決して運動能力が高い子供がそろっていたわけではありません。
(見ていた保護者の方には、もともとクラス分けが・・・いってい た方もいましたが)
私が、タイヤ運びのために行ったこと。
それは、、、
「タイヤを落とさないためにはどうしたらよいか」という課題を位置づけた。
それだけでした。
そのために。
ちょうど実習生が来ていたので、実演させてわざと落とさせました。
「大学生だって落とすんだよね~みんなは落とさずいけるかな。」 ときっかけました。
それ以来、大運動会が終わるまでは「タイヤを落とさないためには どうすればよいか」という課題にむけて子供たちは練習していました。
1年生なりに、課題に対していろんな考えを出してきました。
ポールを「少しハの字にする。」「旗を曲がるときは少し傾ける」
等々思いついたことを、自分たちでいろいろためしながら練習していました。
そして、
「ハの字はどれくらい開けば落としにくくて走りやすいか 。」
「どれくらいまで傾けたら速くまわれるか」
等々、子ども たちなりに追究していました。
私は、 時々子どもの前で、がんばりや上達 を紹介したり、ふりかえりを言わせたり、タイムをは実習生にはからせたり。しただけです。
これは小学校1年生の運動会の競技ではありますが、実は他のこともで、同じだと思います。
いくら大人や教師が、当然勝つために大切だと思うことを、いくら 話してきかせても。
子どもたちにとって実感をともなった理解になっていなければ、なかなか子どもたち自身のものにならない。
子どもは一生懸命言われた通りにやろうとしているのに、大人や教師がいって聞かせたこととは違う動きになってしまう。
そして「あれだけ何度も言ったのにできてないじゃないか!」「何回いってもわからない、できない子どもたち」と、子とも達のせいにしてしまっている人っていないでしょうか。(学校外のスポーツ 等の指導にも多いかも知れませんね)
そうやってできないことを子どものせいにするのではなく、本当に子どもたち自身が考え、納得して取り組めるような指導をさているのか。自分の指導を振り返ることが大切だと思います。
子どもたちに自身が考え、取り組めるために、よく「目標が大切」ということが言われます。それも、ただ目標をもてばよいだけでなく、その目標達成のために、子どもたち自身で考え、 答えを見つけていくようにすることが大切なんだと思います。
どの競技やスポーツもそうですが、始まってしまえば大人は口出し 、手出しはできません。
結局は自分で考え、自分で解決できるよう動ける子供を育てること が一番の必勝法である。それはきっとスポーツだけでなく、ほかのことでも同じ。
「精神と時の学校」のタイヤ運びからそんなことを学びました。
読んで頂きありがとうございました。
運動会一人一点
運動会の得点はどうやって決めていますか?
自分の学校の運動会の、どの競技が何点で、なぜその配点なのか明確でしょうか。
「精神と時の学校」では、次のように競技の配点が決まっていました。
団体競技なら1位が50点。2位が40点。3位が30点。 綱引きなら、1位が45点、2位が40点、3位が35点。 短距離走なら、1位が1.7点、2位が1.4点 3位が1.1点 4位が0.9点 5位が0.5点 6位が0.3点 といった具合です。(ちょっと短距離走は記憶が曖昧ですが・・・)
なぜこのような配点にするのか。それには理由がありました。
それは、どの競技も、参加する者が一人1点もっているということです。
つまり1学年が120人でしたから、団体競技は合計で120点。短距離走なら、1組が6点×20組で120点。 この点の場合、「1人1点もってるんだよ。」という指導を明確に行うことができます。それは「順位以上に大切なことがある」ということを伝えるメッセージにもなります。特に短距離走などでは。
また、得点差があまりできず、最後の綱引きで勝負が決するといった接戦になることも多かったです。必然的に、目指す「最後まで頑張る姿」を見られる一つの要因ともなります。
それは、得点の配点の仕方だけに原因があるわけではないく、「一人1点をみんなが競い合う」という意識づくりに、配点も影響しているのだろうと思うのです。
運動会のことについて協議するとき、配点のことまで話題にあがることはあまりないのではないでしょうか。 しかし、教師たちが運動会で目指そうとする姿と、競技の配点も果たしてあっているのかどうか。そんなことも時には見直す必要があるのではないでしょうか。
以前どこかの学校で、「短距離走6位・・・0点」なんていう配点を見たことがあります。 多くの学校では走る人数がそろわないので、6位がいない組がある。だから、得点の計算のしやすさなどを配慮して、6位0点のところもあるようです。しかし、優先すべきは得点の計算のしやすさなのか、それとも最後まで頑張らせることなのか。
「最後まで一生懸命走ることに意味があるんだよ」と指導しながらも、最下位は0点。ではやはりおかしいと思うのです。 人数にもばらつきがあったりで一人1点の配点は難しいことが多いでしょう。しかし、「去年通り」で本当によいのかを見直し、ねらいに向かっている子どもたちが報われるようなシステムや環境を整えることも大切なんだということが、この「精神と時の学校」配点からも学んだ気がしているのです。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
子供の姿が全て
「子供の姿がすべて。」
「精神と時の学校」で、印象に残った言葉の1つです。
問題解決的な学習が増えたことにより、授業や単元の中に、子供が解決すべき課題が位置づけられた授業が大変増えています。
そのことは資質・能力を育成していくために大切にされてきていますから、そんな授業が増えることはとても素晴らしいことだと思います。
それにともなって、「課題は果たしてこれでよかったのか。」「評価規準はこれでよかったのか」「こんな言葉の方がもっと良かったのではないのか。」「単元の構想はよかったのか。」「主体的・対話的で深い学びは実現されたのか」ということが、事後研で議論することも増えています。
その際、議論の判定基準は大きく二つあると思っています。
一つは、もちろん「学習指導要領」です。
当然、教科書は指導要領にもとづいてつくられ、つけたい力は指導要領に基づいて設定されているわけです。ですからその授業や単元が良かったのかどうかは、指導要領に照らして判断されるべきことだと思います。
少し余談になりますが、指導書や朱書き本をもとにする場合は、執筆者や編集者の指導要領の解釈が一度入っているということを、しっかり踏まえておくことが大切だと思います。
そして二つ目は当然「子供」です。
当然のことです。
しかし今授業に関わって、、、「目当て」「課題」「評価規準」「主体的・対話的で深い学びの実現」「資質・能力の育成」「単元を通した」「思考ツール」・・・等々、今まで当たり前にやってきたことに敢えてネーミングがされたり意味づけされていたりすることが多くあります。
そのことにより、「目当てや課題や評価基準の文言はこれでよかったか」「主体的・対話的で深い学びの実現や資質・能力の育成は見られたか」といったことが議論の中心になることが多い気がしています。
より質の高い授業を目指していくためにそれはとても大切なことなのですが、その際、子どもの姿がなおざりになっていることはないでしょうか。
子どもはとても生き生きと学び、追究する姿が見られる授業だったのに、
「目当てはこの文言の方がもっとよかったのでは」
しっかりと教師がねらう姿が見られる姿が見られる授業だったのに
「課題はこの文言の方がもっとよかったのでは」
これはまだいい方で、逆もあります。
子供は目指す全然学びの姿を見せていないのに、「目当ての文言はいいと思うが・・・」「課題の文言はよかったが・・・」といった話になる。
繰り返しますが、大切な議論ではあります。
しかし最も大切なことは「子供の姿」であり、それが全てである。
そのことからすると、極端かも知れませんが
子どもは目指す姿を見せていないのに、「目当てや課題がよかった」ということは本当はありえない。
子どもが目指す姿を見せているのに、「目当てや課題いまいちだった」ということは本当はありえない。
子どもの姿以上に、他のことが重要視されて議論がすすんでいくと、授業をなんのためにやってんのかという本末転倒な議論になりかねない。
「そんなことは当然。わかっている」という方も多かったことと思います。
ただ、今、授業の質的変換が求めらているこんな時だからこそ、つねに授業は子供のためであり、「子どもの姿が全て」であることを大切にしていきたいものだと思っています。
読んでいただきありがとうございました。