子供の姿が全て
「子供の姿がすべて。」
「精神と時の学校」で、印象に残った言葉の1つです。
問題解決的な学習が増えたことにより、授業や単元の中に、子供が解決すべき課題が位置づけられた授業が大変増えています。
そのことは資質・能力を育成していくために大切にされてきていますから、そんな授業が増えることはとても素晴らしいことだと思います。
それにともなって、「課題は果たしてこれでよかったのか。」「評価規準はこれでよかったのか」「こんな言葉の方がもっと良かったのではないのか。」「単元の構想はよかったのか。」「主体的・対話的で深い学びは実現されたのか」ということが、事後研で議論することも増えています。
その際、議論の判定基準は大きく二つあると思っています。
一つは、もちろん「学習指導要領」です。
当然、教科書は指導要領にもとづいてつくられ、つけたい力は指導要領に基づいて設定されているわけです。ですからその授業や単元が良かったのかどうかは、指導要領に照らして判断されるべきことだと思います。
少し余談になりますが、指導書や朱書き本をもとにする場合は、執筆者や編集者の指導要領の解釈が一度入っているということを、しっかり踏まえておくことが大切だと思います。
そして二つ目は当然「子供」です。
当然のことです。
しかし今授業に関わって、、、「目当て」「課題」「評価規準」「主体的・対話的で深い学びの実現」「資質・能力の育成」「単元を通した」「思考ツール」・・・等々、今まで当たり前にやってきたことに敢えてネーミングがされたり意味づけされていたりすることが多くあります。
そのことにより、「目当てや課題や評価基準の文言はこれでよかったか」「主体的・対話的で深い学びの実現や資質・能力の育成は見られたか」といったことが議論の中心になることが多い気がしています。
より質の高い授業を目指していくためにそれはとても大切なことなのですが、その際、子どもの姿がなおざりになっていることはないでしょうか。
子どもはとても生き生きと学び、追究する姿が見られる授業だったのに、
「目当てはこの文言の方がもっとよかったのでは」
しっかりと教師がねらう姿が見られる姿が見られる授業だったのに
「課題はこの文言の方がもっとよかったのでは」
これはまだいい方で、逆もあります。
子供は目指す全然学びの姿を見せていないのに、「目当ての文言はいいと思うが・・・」「課題の文言はよかったが・・・」といった話になる。
繰り返しますが、大切な議論ではあります。
しかし最も大切なことは「子供の姿」であり、それが全てである。
そのことからすると、極端かも知れませんが
子どもは目指す姿を見せていないのに、「目当てや課題がよかった」ということは本当はありえない。
子どもが目指す姿を見せているのに、「目当てや課題いまいちだった」ということは本当はありえない。
子どもの姿以上に、他のことが重要視されて議論がすすんでいくと、授業をなんのためにやってんのかという本末転倒な議論になりかねない。
「そんなことは当然。わかっている」という方も多かったことと思います。
ただ、今、授業の質的変換が求めらているこんな時だからこそ、つねに授業は子供のためであり、「子どもの姿が全て」であることを大切にしていきたいものだと思っています。
読んでいただきありがとうございました。