子どもが「問いをもつ」ということ
資質能力を育成するために、問題解決的な単元や授業が、さらに重要視されるようなりました。 問題解決的な授業を行うために、「単元を通した課題」「一時間の課題」というように、「課題」という言葉をよく耳にします。
例えば算数での 「今日はこの問題を解きますよ。」と言った「問題」と区別するためにも、「課題」という言葉を敢えて使うようになっています。 問題解決学習のことを課題解決学習と呼ぶようにもなっています。
しかし、私が勤めていたころの「精神と時の学校」では、「課題」という言葉は使われていませんでした。
代わりに、違う言葉を使っていました。
それは、「問い」です。
不易流行〜「問いの深化」と不易と流行〜 - 「精神と時の学校」で学んだこと
その授業、単元の中で、子どもが考えていくこと、解決していくことを「問い」と呼んでいました。
「問い」という言葉を使うのは何故か。
それは、「なぜだろう。どうしてかな。それを明らかにしてみたい。」という意識を、子ども自身がもつことを大切にしよう。そんな教師の思いが込められていたのだろうと思います。
「問い」は与えるものではなく、子どもたちがもつもの。
だから、授業や単元の導入では、子どもが「問いをもつ。」ように、手立てを講じるわけです。子どもたちが、「なぜなんだろう。どうしてだろう。解決してみたい。」という意識になる、即ち「問いをもつ」ように。 教科によって、単元によって、または教材によって、子どもが問いをもつ手立てはそれぞれ違うわけですが、都度、子どもが問いをもつためにはどうしたらよいのか。という「問い」をそれこそ教師がもって、授業をつくっていました。
以前の記事で紹介したように、課題を黒板に貼るのではなく、チョークで書くのもそういった意味からです。
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時間が来たから課題が板書に位置づくのではない。指導案で、次は「課題の提示」だから課題を書くのではない。 子どもが自分たちの中に「問いをもった」状況になるから課題が位置づく。 だから、チョークで書いた方が自然なわけです。
これらのことから、問い=課題というよりは、問い=課題意識 ということが言えます。 そして「子どもが問いをもつような授業をめざす」ということは、「子どもが学びの主体者となる授業をめざす。」ということに、他なりません。
是非みなさんも子どもに「課題を与える」よりも、子どもが「問いをもつ」ということを大切にして授業をしてみて下さい。主体的に学ぶ子どもの姿を見られることにつながると思いますよ。
読んで頂きありがとうございました。