細か過ぎる全体研
6月。多くの学校で校内研シーズンではないでしょうか。
校内研究授業は、学校によっていろいろなやり方があるでしょう。
学年で互見授業をしたり。
学期に一回全体研をしたり。
「精神と時の学校」の全体研は独特でした。
授業者は、在籍が長い、いわゆる年次が高い先生です。
その他の先生は、三人の児童、教師、全体、それぞれがグループをつくって記録します。
その記録も一言一句、発言だけでなく、その動き、目線まで、逃さず記録していきます。
1分ごとに仕切られた全員が同じ記録用紙に記録していきます。
教室では、1分ごとにカスタネットがなり、タイマーも掲示され、全員の記録がずれないようにしていきます。
授業が終わって、自分の学級の子どもたちを帰したら、いよいよ事後研、、、ではありません。
それぞれの記録用紙を切り貼りして、時間に合わせて繋いでいきます。
そして、教師の手立てと、子ども達の変容を事細かに見ていくのです。
研究主任から、記録を見て気になったところの質問があって答えられなければ、もう一度記録しておいたビデオや音声を書き直して答えます。
そうやって、一時間の授業を、完全に細かく分析していくのです。
一時間、一日で終わるのではなく、問題解決授業における、問題が解決するまで。言わば単元が終わるまで。ずっと同じ作業が繰り返されるのです。
これは何のためにするのか。
それは、「子どもの姿・事実」から、研究仮説や、研究成果を生み出すためです。
教師のどんな手立てが、子どもが問いをもつことに繋がったのか。
どんな学習活動が子どもの解決に繋がったのか。
そんな仮説・検証を、予想や経験値ではなく、「子どもの姿」で行うためなのです。
そうして子どもの姿から、研究仮説や研究の検証を行い、年に一回の公開研究会へと繋げていたのです。
これほどまでのマニアックなやり方の全体研は、時間、労力など、犠牲にすることも多く「精神と時の学校」でなければ取り組むべきではないのかも知れません。
ただ、「子どもの姿、事実」から、スタートするという姿勢は、何も授業研究だけでなく、様々な教育活動において大切であるということは、言うまでもありません。
あのとてもマニアックで大変なやり方の全体研は、年に一回の大切な公開研究に繋げる大切な作業であるというだけでなく、例え教師の経験を重ねようとも、日々忙しかろうとも、「『子どもの姿こそが、事実である。』ということを忘れることなく、謙虚に子どもから学び続けよ。」という、先輩の先生方からのメッセージであったような気がしてならないのです。
読んで頂き、ありがとうございした。