問い2がかかってない
初めての公開研の前時のとき。 私は道徳で公開授業でした。
「精神と時の学校」では、特に公開研の道徳は2時間で行なっていました。
課題が位置づく、いわゆる「問い2」が位置づくまでを1時間目。その課題から解決までを、2時間目。という流れでした。
不易流行〜「問いの深化」と不易と流行〜 - 「精神と時の学校」で学んだこと
公開研の前時が確か、公開研の3、4日前だったと思います。前時を当時の道徳主任が授業を見に来ていました。
前時を終え、指導案に「問い2」として書いてあった文言を板書に位置付けて終わりました。
しかし、道徳主任の先生からは、「まだ、問い2がかかってないなー。」と言われ、公開授業まで、「もう一時間やった方がいい。」ということになり、手立てを準備して、1時間目の途中からをやり直しました。
子どもの経験を振り返らせたり、登場人物の状況をもう一度捉え直させたり。
そして、昨日と同じように、課題にせまる発問をしたとき、子どもたちの手が勢いよく一斉に挙がりました。
それを見て教科主任は、「よし。」と言い、前時をようやく終えることができました。
まだ自分が「精神と時の学校」に勤務し始めて2か月くらいの出来事だったのですが、、、。
そのとき、はっきりわかったことがあります。
1つ目は「問い2」いわゆる中心課題といわれるものは、板書に書いたときが、課題が位置づいたときではないということ。これは以前書きました。
課題を黒板に、貼るべきか書くべき - 「精神と時の学校」で学んだこと
2つ目は、本当に子供に問いがかかったときは、子どもの挙手の仕方から、目の色から違うということです。
3つ目は、自分のそれまでの授業では、そのように本当に問いをかけようとして、細部にまでこだわって、授業をしていなかったということです。
「なんとなく」の手立て。教師の意図が曖昧な学習活動。
そんな授業で生まれた子どもの「なぜ」は「問い」ではなく、「疑問」レベルだったと思います。
意図的に。
子どもが「なぜだろう。」「解決してみたい。」という強い「問い」を持つ状況を、意図的に作り出し、問いを生み出す。
それこそが「授業」のスタートなんだということ。
与えられた「やり直し」の授業によって、問いがかかった子どもの姿を明確にみることができたおかげで、学ぶことができました。
みなさんも、本当に「問い」をもった子どもの姿になっているか。という視点で中心課題を位置づけたときの子どもたちを見てみてはいかがでしょうか。
読んでいただき、ありがとうございました。