「精神と時の学校」で学んだこと

「1日が365日」とまではいかないけれど、いた時間以上に多くのことを学んだ学校。そこで学んだことを紹介します。

入学式は最初の授業

卒業式が最後の授業とは良く言われます。

それに比べると、私のこれまでの経験では「入学式が最初の授業」という意識は卒業式よりは少し薄いような気がします。

「精神と時の学校」では、入学式、特に入学式後の教室の時間が最初の授業でした。

 本時案も書いて配布してのぞんでいました。

 その本時案にある到達像、目指す子供の姿は、、、。

 「明日も学校にきたい!!」という気持ちをもたせること。

 そのために、入学式後に「授業」を行うのです。

 私も一年生を担任し、そのときは、その学年の活動を「竹馬」にすることに決まっていたので、入学式前、教卓の下に、児童全員分の竹馬(正確には鉄馬)を隠していました。

 そして、簡単に自己紹介を終えると片方の竹馬だけでできるバランスゲームをしました。

 その後2本を組み合わせて、竹馬に既に乗れる子供や、チャレンジしたい子供に、前で乗らせたりしました。

 明日からもやってみたい!という気持ちを大きくしていきました。

 ただ、「乗りたくない」「竹馬をしたくない。」という子供も出てくることが当然考えられます。

 ですので、既に決定していた、1年生とペアの6年生の写真を見せ、 「乗れない人、心配な人は、明日から、このお兄ちゃんやお姉さんが支えてくれるから大丈夫だよ。」と話しました。

 当然、前もって6年生の担任と6年生に依頼をしていました。 6年生は入学式の翌日から、ペアの1年生をサポートしたり、一緒に遊んだりすることは、すでに伝統となっていたので、6年生にとっても当然のことでした。

 翌日朝。1年生の名前が書かれた竹馬をもって、1年生の玄関で待ち構える6年生の姿がありました。  1年生は全員笑顔、とまではさすがにいきませんが、6年生にサポートされながら朝の準備を済ませ、早速6年生に支えられた竹馬で練習する姿が見られました。

 翌日から1年生でも自力登校することになっていましたから、電車のホームを間違って反対方向に行ってしまい、駅員さんから電話をかけてもらった一人を除いて、全員が2日目の登校をして、6年生とつながる経験をしました。

 ついつい入学式やその次の日は、1年生や親にも規律を教えようと、学校の決まりの伝達に多くの時間を使ってしまいがちだと思います。  しかし、最初の授業で「小学校って楽しいな!」という思いや、6年生とのつながりをしっかりつくっておくことが、後々の1年生の指導にとってもより意味があることのような気が、あの竹馬の最初の授業をふりかえってしています。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

細か過ぎる全体研

6月。多くの学校で校内研シーズンではないでしょうか。

 

校内研究授業は、学校によっていろいろなやり方があるでしょう。

 

学年で互見授業をしたり。

学期に一回全体研をしたり。

 

「精神と時の学校」の全体研は独特でした。

 

授業者は、在籍が長い、いわゆる年次が高い先生です。

 

その他の先生は、三人の児童、教師、全体、それぞれがグループをつくって記録します。

 

その記録も一言一句、発言だけでなく、その動き、目線まで、逃さず記録していきます。

 

1分ごとに仕切られた全員が同じ記録用紙に記録していきます。

 

教室では、1分ごとにカスタネットがなり、タイマーも掲示され、全員の記録がずれないようにしていきます。

 

授業が終わって、自分の学級の子どもたちを帰したら、いよいよ事後研、、、ではありません。

 

それぞれの記録用紙を切り貼りして、時間に合わせて繋いでいきます。

 

そして、教師の手立てと、子ども達の変容を事細かに見ていくのです。

 

研究主任から、記録を見て気になったところの質問があって答えられなければ、もう一度記録しておいたビデオや音声を書き直して答えます。

 

そうやって、一時間の授業を、完全に細かく分析していくのです。

 

一時間、一日で終わるのではなく、問題解決授業における、問題が解決するまで。言わば単元が終わるまで。ずっと同じ作業が繰り返されるのです。

 

これは何のためにするのか。

 

それは、「子どもの姿・事実」から、研究仮説や、研究成果を生み出すためです。

 

教師のどんな手立てが、子どもが問いをもつことに繋がったのか。

どんな学習活動が子どもの解決に繋がったのか。

そんな仮説・検証を、予想や経験値ではなく、「子どもの姿」で行うためなのです。

 

そうして子どもの姿から、研究仮説や研究の検証を行い、年に一回の公開研究会へと繋げていたのです。

 

これほどまでのマニアックなやり方の全体研は、時間、労力など、犠牲にすることも多く「精神と時の学校」でなければ取り組むべきではないのかも知れません。

 

ただ、「子どもの姿、事実」から、スタートするという姿勢は、何も授業研究だけでなく、様々な教育活動において大切であるということは、言うまでもありません。

 

あのとてもマニアックで大変なやり方の全体研は、年に一回の大切な公開研究に繋げる大切な作業であるというだけでなく、例え教師の経験を重ねようとも、日々忙しかろうとも、「『子どもの姿こそが、事実である。』ということを忘れることなく、謙虚に子どもから学び続けよ。」という、先輩の先生方からのメッセージであったような気がしてならないのです。

 

読んで頂き、ありがとうございした。

卒業式の呼びかけ

前回は卒業式の朝のことに書いて書きました。

 

今日は卒業式の中のことで一つ。

 

卒業式の中で、卒業式と在校生で互いにお別れの言葉を呼びかけ合う場面があります。

 

どの学校でも必ずあると思います。

 

「精神と時の学校」では、その呼びかけにおいておそらく、決定的に違うところがありました。ひょっとすると、同じように取り組んでいる学校もあるかもしれませんが、、、。

しかし、私が今まで勤務していた学校の中ではありませんでした。

 

それは、卒業生と在校生のお別れの言葉は、卒業式のとき、互いに初めて聞く。ということです。

練習では聞かせない。呼びかけは飛ばす。

 

互いに呼びかけをするのは最初で、最後。卒業式本番、ただ一回だけ。

 

卒業式のその日その時まで、卒業生は在校生からどんな言葉を言われるのかわからない。

その逆も同じ。

 

伝えるチャンス、聞くチャンスは、一回限り。

だから、真剣に伝えようとし、真剣に聞こうとする。

自然とその一言に、思いを込めようとする。

心に響く一言になる。

 

私の今までの経験からして、多くの学校で卒業式までの合同練習の中で、既に聞いている場合がほとんどなのではないでしょうか。

 

場合によっては、もうたくさんの練習の中で嫌というほど聞いていることもある。

 

本番は失敗できない。時間延長できない。同じ状況で言えるように練習しておく必要がある。

だから、特に前日など同じように通してみる。卒業式を二回するくらいの勢いで立派すぎる前日練習をするときもある。

せっかく今まで呼びかける練習をしてきたのだから本番に聞かせるだけではもったいない。

 

でも果たして本当にそうだろうか。

 

誰のための卒業式なのか。何のための卒業式なのか。

 

今一度そこにたちもどって考えたとき、本番で初めて呼びかけを聞き合うというやり方も当然考えられるはずです。

 

時間については、呼びかけの時間を決めておき、それに従ってそれぞれの学年が練習しておけば容易にクリアできる問題です。

さらにそれぞれの練習も、「6年生に伝えるために。」「在校生に伝えるために。」という目的意識をさらに強く持たせることができ、練習の質も高まります。

 

もう練習で何度も聞きあってるのに、「それでは相手に伝わらない!もっと大きな声でいいなさい!」と叱られる。子ども達は内心、「もう伝えとるわ!」なのでは。

 

また、卒業式本場で大勢の前で言えるのか確かに子どもも教師も不安、というのはあるでしょう。しかし、例え大勢の前で言うのが初めてでも、臆せずに思いを込めて堂々と言える。最後の授業である卒業式でそんな姿を見せられる子どもを育てる。そこをゴールにしているはずです。

 

もちろん、特別に配慮が必要な子はその通りではありません。

 

これは、決して私の思いつきのアイデアではありません。

「精神と時の学校」の卒業式本番。在校生が立ち上がった瞬間、ひな壇にいる卒業生は固唾を飲んで、いよいよ初めて聞く呼びかけに聞き入る。

それを聞いてさらに思いを込めて在校生に伝える。在校生もその言葉に聞き入る。

大きな緊張感の中、互いの思いが最初で最後の一言に込めた言葉に込めて交わされる。そんな子ども達の呼びかけの姿を実際に見てきたからこそ。

 

「互いの呼びかけを聞くのは、卒業式本番のみ。」

皆さんに是非、おすすめしたい取り組みです。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

卒業式の朝のお別れ式は5年生の検定試験

卒業式の日の朝に、縦割り班との6年生とのお別れ式を行っていました。

 

卒業生が体育館に入る前、1〜5年生が、廊下の両側に列をつくって待ち構えます。

 

そこに、6年生が並んでやってきて、ちょうど縦割り班の前に立つのです。

 

そして、順番に6年生にお別れの言葉を述べていきます。

最後に、縦割り班の1〜5年生までのメッセージと、メンバー全員が写った写真が載った色紙を渡し、6年生がお別れの言葉を述べます。

 

色紙を受け取って、感極まり、言葉にならない6年生も。

 

そして、名残が尽きない中、6年生の列は再び進み出します。一年間過ごして来た縦割り班のメンバーとお別れした気持ちを胸に、卒業式へと向かうのです。

同じく、 4、5年生は6年生からもらった最後の言葉を胸に、卒業式へと向かうのです。

 

この卒業式の朝の取り組みは、卒業式直前にお別れ式行うことで卒業式に向かう気持ちをつくる。そのためだけに行われる訳ではありません。

 

この朝のお別れ式には、さらに別の意味がありました。

 

それは、6年生がいなくなったあと縦割り班のリーダーとなる5年生の、言わば、最高学年検定試験です。

 

お別れ式で6年生に渡すための色紙は、5年生がそれまでに準備をします。休み時間などを使い、自分の班のメンバー全員のメッセージを自分で回収し、チェックし、貼り付けていくのです。

 

約束したはずなのに、回収しに行ったら、下級生は遊びに行っていていない。

やっと、手に入れたと思ったら誤字脱字や、6年生には見せられないような雑な字。書き換えさせる必要がある。

そうやって苦労しながら色紙を作りあげていきます。

下級生をお世話することの大変さと、6年生の偉大さを色紙作りを通して知るのです。

 

さらに、当日の朝、お別れ式は5年生の仕切りで全て行います。

卒業式の中で「来年は自分達がこの学校を引っ張っていきます!」といった台詞をよく5年生が言うことがありますが、それを身をもって見せるのです。

 

このようにして、4月に6年生になって急に最高学年になるのではなく、卒業式に取り組む過程や当日の朝を利用し、最高学年となる心と態度を育てながら、5年生を最高学年へとしていきます。

また、卒業式に出ない、1〜3年生も、最後の卒業式の朝の6年生の姿を焼き付けながら、6年生へとなっていくのです。

 

日程などの都合で、卒業式に出ない学年は卒業式の日の朝、登校だけして、すぐ下校する場合があります。

しかし、例え僅かな時間でも、卒業式の朝、6年生とのお別れの時間をつくるために、時間や動きをやりくりするのは、私達教師のとても大切な仕事の一つだと思うのです。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

細案10枚家に置いて来い。

「細案10枚、家に置いて来い。」

 「精神と時の学校」で印象に残った言葉の一つです。

 研究授業をするときは、細案を書くことがあると思います。

 先生の言葉、発問。それに対してどんな子供の反応があるか。その言葉を、どう板書していくか、、など、授業の流れを書いていきます。

 以前、紹介した「流れ図」とは少し違います。

流れ図で授業が流れることが確認できた後で、それを具体的に授業を描いていくために書くものです。

 私も研究授業の前、細案を書いていたとき、この言葉に出会いました。

「細案10枚、家に置いて来い。」

「細案10枚書いて来い。」ではないのです。

 この一言の言葉の中に込められているメッセージをみなさんはどう感じるでしょうか。

 細案10枚を書くということは、授業準備をしっかり行うことですね。 研究授業するに当たって、細案10枚書くくらい当然だろ。ということ。

 注目すべきなその後の「家に置いて来い。」という言葉です。

 つまり、どれだけ授業の準備をしようもも、教室で子供たちの前に立ったら、見るべきは細案ではなく、「子供たち。」「子供たちの意識ですよ。」ってことなんです。

 苦労して書いたから、その細案のように授業を流したくなる。そう思うのなら、敢えて細案は見ずに子供を見る。

そうして、細案なんかは全くないかのような授業を、子ども達と創っていく。

 そんな授業を目指そう。というメッセージが「細案10枚置いて来い。」という一言の中に込められていると思うのです。

 時々、細案や本時案を机上に置いて、見ながら授業をしている人を見ます。

 そんな授業は、返って細案や本時案通りにいかない。

 教師が描いた通りに、子供の考えをいかせよう、いかせようとするほど、子どもは反対方向にいっちゃう。

そういうことからしてもやはり、机の上に指導案や細案をおいて、それを見ながら授業をするということは、子供の方を見ていない授業になっている。ということなんだと思います。

たとえ研究授業であっても、授業で目指すことはただ一つ。 「子供に力をつけること。」であって 「細案通りに授業を流すこと」ではない。

「細案の通りに流した結果、子どもも生き生きし、力もつく。そんな授業ができるように研鑽を重ねよう。」

そんなことが、あの一言にこめられていたのだと思います。

 読んでいただきありがとうございました。

学校における働き方改革〜敢えて人の仕事を先にする〜

「人の仕事を先にする。」


明確に先輩の先生から言われたわけではないのですが、確かに学んだことです。

 

この言葉には二つの意味があると思っています。

一つ目の意味は、まさにその言葉の通り。

「自分の仕事と、人から頼まれた仕事があったときに、人の仕事の 方を先にする」ということ。

 

「精神と時の学校」では長く勤めていると、いろんな分掌の主任に なります。


そうすると、周りの人から文書が提出されるので、返さなければなりません。 


教育実習時期は教育実習生から指導案やレポートが提出されるので、何らかのリアクションをして戻さなければなりません。

 

一から書き直しなのか、一部訂正なのか、時間をとってア ドバイスするのか。

 

それをせずに自分のところに提出されたものが、自分のところで留 まっていることは、その間、その人たちの仕事が止まっていること を意味します。その結果、その人の仕事は遅れてしまう。

 

相手が一人でしかも提出されたものがほぼOKならあまり影響はないかもしれません。

 

しかし多くの人にかかわる仕事であったり、大幅変更が必要な場合 だったりするときは、早めに方向を示してあげる必要があります。大抵の仕事は、例え相手は一人でも、その背景にたくさんの人が関わっていることでしょう。

 

もしそれが遅れたら、周りの多くの人が遅れることになる。
手直しする時間は削減され、質の低いものになってしまう。

そして結果的には自分の仕事も遅れてしまうことにつながる。

だから、よほどのことがない限りは、「優先順位は人の仕事である 。」ということを学びました


二つ目の意味は人の仕事が先に進むように 「段取りや計画」を先にするということです

自分だけの仕事にかかわることではなく、全体にかかわる「段取りや計画」をすることです。


「そんなの当り前!」という方も多いと思います。
しかし、学校というところは、職員室では大人がチームで仕事をするという会社と同じような要素をもつ反面、一人ひとりは多くの児童生徒にかかわる仕事をたくさん抱えている。そのため全体の「段取りや計画」よりも、まず先に「自分の仕事」を優先してしまいがちな場所だと思います。

 

特に忙しい学校だった「精神と時の学校」では、一人ひとりが忙しいからこそ、全体の段取りや計画を大切にしようという意識が強かったように思います。
(そうしなければ仕事が回らないくらいみんなが追い込まれていたこともあると思います。)

 

今言われる「働き方改革」では、学校という場所では敢えて人の仕事を先にすることを意識することが大切だと思います。


働き方改革」によって、残業の時間を減らさないといけない。持ち帰り仕事も減らしたい。そうなったときに、ついつい自分の仕事を早く終わらせようと自分の仕事だけに集中してしまう人が増えてしまうことが考えられます。自分のクラスの丸つけ、授業準備、 事務処理仕事などなど、、、。
 しかし、特に全体に関わる仕事を請け負っている人が、自分の仕事 にだけ集中してしまうことで、全体の仕事が遅れ、かえってトー タルとしては、働き方改革が遅れてしまう。ということがあることを 、わかっておく必要があると思います。


なかなかできないことも多々あるでしょう。自分もそうです。しか し「人の仕事を先にする」ということの必要性がわかっていながらもできないのと、全く意識していないのとでは、働き方改革の進み方も変わって くると思うのです。

 

 読んでいただき、ありがとうございました。

 

合唱を「歌声」と呼ぶ理由

合唱のことを「歌声」と呼んでいました。

そう呼んでいる方もいらっしゃるかも知れません。なぜ「歌声」か。

 

自分たちの思いを声にし、歌にして届ける。

だから敢えて「歌声」と呼んでいました。

その為、みんなで歌っていくために選ぶ歌は、その学年のテーマや、行事のテーマに出来るだけあったものを選ぶようにしていました。

 

そして、歌い方の指導と共に、歌詞の意味について考えたり、話しあったりする時間をとっていました。

 

歌詞には、どんな意味があるのか。

歌詞の中の言葉に、どんな思いが込めらるか。

その思いを伝えるにはどういうふうに歌ったら良いか。

そんなことを出し合わせ、話し合わせていくのです。

6年生の為に歌うのなら、6年生の姿が、歌詞と重なって思い浮かぶように。

お家の人の為に歌うのなら、感謝の思いが、歌詞を通してより伝わるように。

自分達の成長を伝えるなら、優しさ、強さ、協力、努力といったことをどの歌詞に込めたか伝わるように。

 

歌詞の一つひとつの言葉に目を向けさせていく。

 

そうすると、

なぜゆっくり歌うのか。

なぜ力強く歌うのか。

なぜみんなと合わせることを意識して歌うのか

といった理由が子ども達の中にしっかりできるのです。

 

「もっと気持ちを込めて歌いなさい。」

「もっと大きな声で歌いなさい。」

「もっと気持ちを一つにして歌いなさい。」

という指導はよくします。

しかし、それでもなかなか歌声が変わらないとしたら、やる気がないとか、恥ずかしいとかいうわけではなく、

 

どの言葉にどんな気持ちを込めたらよいのか。

なぜ大きく歌うのか。

気持ちを一つにして歌うって、どんなことなのか。

ということが、わかってないだけなのかも知れません。

 

だから、具体的に、歌詞の言葉一つひとつと関連させて、歌い方を指導していくことは大切なことだと思います。

 

まあ今回は、自分がそれまで合唱の指導について本気で考えたことがなかっただけで、「そんなこと、歌の指導する上では当然でしょ!」って方も多いことと思います。

例え歌うときでも、目的意識、相手意識、課題意識を大切にする。その為の手立てとして歌詞を丁寧に扱う方法がある。ということに私は気付かされたわけです。

 

歌い方の技術の指導と共に心も育んていくことを意図して。

だから敢えて「合唱」ではなく「歌声」と呼ぶ。

 

もしこれから合唱に取り組もう、または今取り組んでいるという方がいらっしゃったら、「合唱」を「歌声」にすることを大切にして取り組んでみてはいかがでしょうか。

 

読んで頂き、ありがとうございました。