「精神と時の学校」で学んだこと

「1日が365日」とまではいかないけれど、いた時間以上に多くのことを学んだ学校。そこで学んだことを紹介します。

細案10枚家に置いて来い。

「細案10枚、家に置いて来い。」

 「精神と時の学校」で印象に残った言葉の一つです。

 研究授業をするときは、細案を書くことがあると思います。

 先生の言葉、発問。それに対してどんな子供の反応があるか。その言葉を、どう板書していくか、、など、授業の流れを書いていきます。

 以前、紹介した「流れ図」とは少し違います。

流れ図で授業が流れることが確認できた後で、それを具体的に授業を描いていくために書くものです。

 私も研究授業の前、細案を書いていたとき、この言葉に出会いました。

「細案10枚、家に置いて来い。」

「細案10枚書いて来い。」ではないのです。

 この一言の言葉の中に込められているメッセージをみなさんはどう感じるでしょうか。

 細案10枚を書くということは、授業準備をしっかり行うことですね。 研究授業するに当たって、細案10枚書くくらい当然だろ。ということ。

 注目すべきなその後の「家に置いて来い。」という言葉です。

 つまり、どれだけ授業の準備をしようもも、教室で子供たちの前に立ったら、見るべきは細案ではなく、「子供たち。」「子供たちの意識ですよ。」ってことなんです。

 苦労して書いたから、その細案のように授業を流したくなる。そう思うのなら、敢えて細案は見ずに子供を見る。

そうして、細案なんかは全くないかのような授業を、子ども達と創っていく。

 そんな授業を目指そう。というメッセージが「細案10枚置いて来い。」という一言の中に込められていると思うのです。

 時々、細案や本時案を机上に置いて、見ながら授業をしている人を見ます。

 そんな授業は、返って細案や本時案通りにいかない。

 教師が描いた通りに、子供の考えをいかせよう、いかせようとするほど、子どもは反対方向にいっちゃう。

そういうことからしてもやはり、机の上に指導案や細案をおいて、それを見ながら授業をするということは、子供の方を見ていない授業になっている。ということなんだと思います。

たとえ研究授業であっても、授業で目指すことはただ一つ。 「子供に力をつけること。」であって 「細案通りに授業を流すこと」ではない。

「細案の通りに流した結果、子どもも生き生きし、力もつく。そんな授業ができるように研鑽を重ねよう。」

そんなことが、あの一言にこめられていたのだと思います。

 読んでいただきありがとうございました。