「精神と時の学校」で学んだこと

「1日が365日」とまではいかないけれど、いた時間以上に多くのことを学んだ学校。そこで学んだことを紹介します。

研究授業の挨拶から見えるもの

研究授業を参観するとき、時々、授業の最初と最後に、

「今日はたくさんの方がみなさんの授業を見に来てくれていますよ。挨拶しましょう。」と先生が言い、子どもが振り返って参観者の先生に「お願いします。」と挨拶したり、終わりに「ありがとうございました。」と挨拶をする場面に出会ったことがありませんか。

 

みなさんは、このことをどのように捉えますか。


「きちんとあいさつができる子どもに育っているな。」

「先生の指示がきちんと聞ける子供達だな。」

 

と捉えるでしょうか。


「精神と時の学校」では、研究授業の最初と最後で、参観者への挨拶を行う先生はいませんでした。

 

「新人研」で行なった先生は、指導をされました。

 

なぜか。

 

「お願いします。」「ありがとうございました。」を言うべきは、参観される子どもではなく、参観する教師の方であると考えていたからです。

 

授業を見ることで、子どもの姿、教師の姿から学ぶことができる。

授業を見ることは、教師が成長する貴重な機会である。

 

そんな心構えが授業者にあるのなら。

普段から子どもから学ぼうとする姿勢が授業者にあるのなら。

「お願いします」「ありがとうございました。」と、子ども達に参観者に対して言わせないだろう。

ということです。

 

「素晴らしい授業だな。」と感嘆させられるような授業では得てして、研究授業用の特別な挨拶などなく授業が始まり、「普段通りに頑張ってよ。」などと言わなくても本当に普段通りに、参観者を気にすることもなく追究したり。

子どもは1時間学んだ満足の表情を見せたり。

時には、挨拶もそこそこに、黒板の前に集まって、いい足りなかったことを話し合ったり、先生のところにかけよったり。

そんな姿が見られます。

 

そんな授業ができるのは、普段の授業から、教師が、いつも子供達を見ている。授業は常に子供達とつくるものだと思っている。

研究授業でたくさんの先生達が見に来ても、常に子供達の方を見ている。

参観者への挨拶ではなく、授業の第一声をどうしようかと考えている。

 

反対に参観者への挨拶から始まった授業は、例え指導案通り流れても、要所で教師が強引だったり、どこか上滑りだったりということがあります。

 

参観者に対するあいさつが「お客さんに対する礼儀だ」というのであれば、参観者が教室に入った時、出て行くときに自分から挨拶をする。それで十分だと思うし、その方が本当の挨拶であり、素晴らしい。

と考えるのが「精神と時の学校」だったのです。

 

とは言うものの、自分も参観者に挨拶こそさせないまでも、全く気にしない公開授業はなかなかできませんでした。

 

みなさんは、日頃から子どもが追究し続ける授業、学んだ満足の笑顔を浮かべる授業、終わっても授業の話を続けるような授業を、日頃から心がけていれば、参観者に挨拶をしなくたって参観者から自然に拍手が出るような公開授業ができると思います。

 

読んで頂き、ありがとうございまた。